片手落ち
ふと、この言葉を書いたときに、これは差別用語なのだろうか、と思い当たった。以前、ゲームの仕事をしているときに、差別表現に敏感になっていた時分もあり、半ば習慣的に自問してしまったのである。当時「差別語リスト」なるガイダンスがあったような気もするし、また、よく仲間内で「この言葉が文句をつけられた」等の話題でも盛り上がった。今になって全く率直に語れば、敏感になっていたといっても、開発元、発売元となる会社や関係者に迷惑が及ばぬようといういたって消極的な理由からであり、けして、差別問題を根本から深く考えて自発的に努めていたわけでもない。しかし、使った言葉がNGになるたび、少々腑に落ちない感覚は拭えなかったのが本心だ。
ならば、この一連の自発的な文章の中で、「差別」ということに対する自分なりの線引きをする必要があるのかもしれない。しかし、ここらへん、同様な議論はあまたされているので、少々論を急いでしまおう。結論から言ってしまうと、この文脈の中で、「片手落ち」という言葉を使ったとしても筆者自身が差別をしているという意識がない以上、また差別されるべき対象者もいない以上、差別ということが成り立たない、これが筆者の見解である。そもそも文脈を抜きに表面的な言葉だけを取り出した「差別語辞典」なり「差別語リスト」が、差別の指標となるとは思えない。逆に、差別語辞典に載ってない言葉だけで物凄い差別を表現することも可能だし、かえって直接的でない分、ボディブローのように被差別者にダメージを与えるのではないか。順序としては、差別があっての差別表現であり、差別なきところに表面的な装いだけで差別表現が存在することはないのだ。
「片手落ち」という言葉を単体で考えるに付け、身体のパーツを使った慣用表現は他にいくらでもあり(「目鼻をつける」「腰を折る」「足が地につかない」「喉から手が出る」等々)、これら個々の表現に該当箇所のない障害者もいるからという理由で難癖をつけた日には、日本語自体が干からびてしまう。
少なくともこれまで筆者の出会った障害者の方々は、そんなことは意にも介せず明るくたくましく生きている人が多かった。これは憶測にすぎないが、差別表現について異常にうるさく文句をつける人というのは、かえって差別などされたことのない人たちなのではと思いもする。また、「そもそも、なぜ差別がいけないのか?」と正面きって聞いてみても明確な答えが得られない人たちではないかと思うのだ。
「差別なきところに、表面だけの差別表現はありえない」
まあ、しかしながら、だからといって、なんでもかんでも言葉を使っていいかというと、そうでもなさそうだ。例えば、ここで筆者が突然、脈絡も無く「うんこ」「ちんこ」などと書いたりすれば、気がふれた(「この気がふれる」という表現自体も一般には微妙とされる)と見なされるか、あるいは読者の中には不快感を催す方もあると思われる。言葉は生き物である以上、どの言語でも(どの文化でも)「忌み語」というものは存在する。「あえて使わない」とした言葉たちである。
卑近な例で言えば、現代は、大小便をするところを「トイレ」と呼ぶのが一般的だが、この「トイレ」を表す言葉は歴史的に忌み語になっていく宿命があると思う。「トイレ」すら将来は使われなくなるだろうと予測する。日本語には、この「トイレ」を意味する言葉がかなり多い。「厠(かわや)」「手水場(ちょうずば)」「はばかり」「御手洗」「便所」など。(英語でもrest roomとかbath roomとか、様々に表現はあるようだ。)年月を経て、言葉と大小便のイメージがあまりにも近くなったときに、人々がイメージチェンジを余儀なくされ、かと言って呼称しなくてはならないものであるから、呼び方が移り変わっていく。
「うんこ」「ちんこ」の類もそうだが、あるカテゴリーの意味対象は、その婉曲表現なりが慣用化して実体を示すようになり、次から次へと言葉が変わっていくように思える。
さて、かつて、障害者を差別待遇した時代、その歴史を封印したいのなら、その差別待遇とあまりにもイメージが直結している「かたわ」「おし」「つんぼ」「めくら」「びっこ」の語の類も、忌み語として使われなくなるのもまた時の流れという気がする。そして、誰一人使わず、実体との連想を失ったとき、言葉自体が風化してなんの意味も持ち得なくなるだろう。そのようなものを規制して何の意味があるか。
「言葉は移り変わるもの。言葉自体に罪はない」
しかし、もし「差別」ということ自体が、人間のDNAに深く刻まれた行動傾向とするならば、差別は一向に無くならず、表面的な差別表現は次から次へと変わるだけで、こうした議論をすること自体がもはや意味を持たない。かつてロゴスの相手はパトスと相場が決まっていたが、最近のロゴスのライバルはDNAのようだ。
「差別の元がDNAにあるなら、言葉をうんぬんしても何の意味もない」
しかし、全てをDNAや本能のせいにして、なすがままに思考停止するのも近代以降の「理性」という言葉が泣くというものだ。「言葉」をDNAの働きに対抗させ、社会という生物のメタ遺伝子とみなすなら、かえって差別語が使われた時代背景も含めて残し説明するのが知性的態度ではなかろうか。DNAの三つ組み暗号が、それ自体では記号的意味しかなく、それによって作られるたんぱく質が生物の体を形作るように、言葉や記号単体を取り沙汰するよりはそれらが文脈として示そうとした意味内容に誰しもが注意を向けられるようになることを望む。そこにあるのは、あえてこんな回りくどい文章を書いていること自体がナンセンスと誰もが理解する社会だ。